自己肯定感とセルフワース、同じものの別の顔
編集部 · 公開2026-06-26
セルフワース、自己肯定感、自信。意味が近いのに、調べるほど定義がばらばらで、結局どれがどう違うのか分からなくなる。「で、どっちが大事なの?」と思っているうちに、最初の問いごと宙ぶらりんになる。
たぶん、正しい定義を一個に決めようとするから、よけいに苦しいんです。違いはどこかに境界線があって、それさえ引ければ片づく——その引き方のほうを、この記事は少し疑ってみます。
やりたいのは、どれが正解かを決めることではありません。三つを一枚の絵に並べて、いま自分のどの面が前に出ているかを見分けられるようになること。その入口として、心当たりがあるかもしれない話から始めさせてください。
「自信はあるのに満たされない」のはなぜか
プレゼンや、自分の得意な作業をしているとき、けっこう自信が湧きます。「これは普通にできる」と思える。まわりから評価されれば、その瞬間は気分もいいし、認められている感じもする。そういうこと、ありませんか。
でも、ここに不思議なところがあります。「できた」「評価された」がいくら積み重なっても、根っこのところの自分への安心感は、あまり変わらない。成果が出ているときはいい。けれど、ちょっとうまくいかなかったり、誰にも褒められない時期が続くと、わりとあっさり「自分なんて」のほうに傾いてしまう。だとすると、自信がある=自分を大事に思えている、というわけではないのかもしれません。この二つは、つながっていそうで、実はそんなに連動していない。
いちばんしっくりくる入り方は、たぶんこうです。自分の中に別々の箱が三つあるのではなく、「自分をどう評価しているか」というひとつのものが、場面によって違う顔で出てくる。その顔の名前が、自信だったり、自己肯定感だったり、セルフワースだったりする。
「プレゼンができる」「評価された」というのは、何かと結びついた評価です。できるから・成果が出ているから、いい。これは条件つきの顔です。自信は、だいたいこの顔をしている。だから得意な作業の最中にはちゃんと湧くし、評価されればその瞬間は気分もいい。ここは正常に動いています。
問題は、その条件つきの評価をいくら積み上げても、それは「できる自分」の点数が上がっているだけで、「条件が外れたときの自分」には一円も振り込まれていない、ということです。だから成果が止まったり、誰も褒めない時期がくると、頼りにしていた足場ごと消える。あっさり「自分なんて」に傾くのは、弱いからではありません。足場の置き場所が、ぜんぶ成果の上だったからです。
「根っこの安心感はあまり変わらない」という観察は、かなり正確だと思います。それは、成果という回路を通っても届かない場所にある。そこを仮にセルフワースと呼ぶなら——条件が外れても残っている、自分への素の値——自信とは連動していなくて当然です。むしろ、連動していないことに気づけたのが入口でした。
そのとき傾いているのは、「自分は能力がない」という評価なのか。それとも、能力とは別の、もっと「自分はこのままで大丈夫なのか」みたいな、輪郭のちがう不安なのか。同じ「自分なんて」でも、中身は違います。
この「条件が外れた自分には振り込まれない」という感じは、実験室でも近いものが観察されています。自己評価が低めの人は、いい気分やいい結果を「自分は受け取るに値する」と感じにくい。その「自分はそれに値する」という感覚が薄いことが、落ち込んだ気分を立て直そうとする動機を鈍らせている、という報告があります(参考: 1)。面白いのは、この「値する感じ」が固定された性格ではなく、その場で動くらしいことです。拒絶を思い出させられたり、自分の欠点に意識が向いたりすると、すっと下がる。だから「成果は出ているのに根っこは変わらない」という手触りは、気分そのものの問題というより、この「受け取っていい」のほうの回路が、成果とは別に動いているからです。
原因を探すより前に出ている面を読む
「能力がない」のほうは、実はそこまで本気で信じていません。プレゼンがうまくいかなかった日でも、頭のどこかでは「今回はたまたま準備不足だっただけ」とか「条件が悪かった」と、ちゃんと弁護できる。スキルの話だから、理由がつけられるんです。でも、あなたが本当に傾くときに来ているのは、たぶんもっと後者のほうです。うまく言葉にしにくいけれど、「で、そういうお前って、そもそも価値あるの?」とでもいうような。能力の点数とは別のところで、ふっと足元が抜ける感じ。理由もはっきりしないし、弁護もしにくい。
逆に言うと、不思議なことに、すごくうまくいって評価された日でも、その「大丈夫なの?」という問いは消えていません。静かになっているだけです。だから余計、これは成果とは別の回路で動いているのだと腑に落ちます。
ではその「条件が外れても残っている素の値」のようなものは、そもそもどうやって決まったのか。自信のほうは成果で動くとわかっても、こちらは何で出来上がっているのか、見当がつかない。「決まった」と言うからには、どこかに原因があって、それを突き止めれば説明がつくはずだ。そういう順番で考えたくなりますよね。
ただ、正直に言うと、「何で出来上がっているか」を一個の起源にたどるのは、あまりおすすめしません。育ちとか、昔の誰かの一言とか、それらしい原因はいくらでも挙げられるし、たぶん全部ちょっとずつ当たっている。でも、そこを掘っても「じゃあどうすれば」にはなかなか繋がらない。犯人探しで終わりがちなんです。素の値とは、何か一個の出来事で鋳造されたというより、長く積もって今の温度になっている、くらいの話で。
それより、いまの実感に乗せて言い直したいんです。すごくうまくいった日でも「大丈夫なの?」は消えていない、静かになっているだけ——これは裏を返すと、素の値は「決まって固定されている一個の数字」ではなく、そのときどきで前に出たり、奥に引っ込んだりしている、ということです。値そのものが乱高下しているのではない。どの顔がいま手前に来ているか、が動いている。
だから役に立てるとしたら、「何で出来上がっているか」を当てにいくより、いま自分の中でどの顔が前に出ているかを見分けられるようになるほうなんです。成果の自信が手前に来て賑やかにしている日なのか。それとも素の値のほうが静かに前に出てきて足元が抜けている日なのか。同じ「自分なんて」でも、どっちの顔が喋っているかが分かるだけで、対応がぜんぜん変わってきます。
自信と自己肯定感とセルフワースを一枚に並べる
三つあるからといって、三つの箱に割り振りたくなります。でも、その分け方はおすすめしません。もとは「自分をどう評価しているか」というひとつのものだからです。その上で、自信とセルフワースに自己肯定感を並べるなら、こう置くのがいちばんしっくりきます。
自信は、できることへの評価です。一個一個の「これはできる」が積み上がったもので、いちばん表面で動いている顔。セルフワース——条件が外れても残っている素の値——は、いちばん奥にある、ふだんは静かにしている顔。そして自己肯定感は、その中間というか、その二つをつなぐ蝶番みたいな場所にいます。
どういうことか。自己肯定感とは、「いまの自分を、できる・できないでジャッジせずに、そのまま受け取れているか」という手触りなんです。能力の点数とは少し違います。でも、奥の素の値そのものでもありません。奥にある素の値を、いまこの瞬間、自分でどれくらい認められているか——その「いま現在の通り具合」みたいなものです。だから日によって上下します。素の値そのものは長く積もった温度ですから、そんなにすぐには動きません。でも「いま、それを自分で受け取れているか」は、その日の調子で前に出たり引っ込んだりする。「静かになっているだけで消えてはいない」というのは、まさにこの蝶番の動きのことなんです。
だから順番で言うと、こうなります。いちばん奥に、素の値があります。いちばん手前に、成果でにぎやかに動く自信があります。その二つのあいだに立って、「奥の値を、今日のあなたはどれだけ受け取れている?」と取り次ぎをしているのが、自己肯定感です。
ここがちょっと大事なんですけれど——「できるが積み重なっても根っこの安心感は変わらない」というのは、まさにこの蝶番がうまく通っていない状態のことです。手前の自信は稼げています。奥に素の値もちゃんとあります。でも、自信の点数が奥まで取り次がれていないから、表でいくら稼いでも奥に振り込まれない。逆に言えば、効くとしたらここなんです。素の値を掘り起こしにいくのでも、自信をもっと積むのでもなく、いま手元にあるものをちゃんと受け取り直す、その通りをよくする。
この見方は、思いつきだけではありません。自己評価をきちんと測ろうとした研究でも、似た形が出てきます。全体的な自己評価を分解すると、「自分には価値がある・自分が好き」という側面(社会的な自己価値に近いもの)と、「自分にはやれる力がある」という側面(有能感に近いもの)の、二つの面に分けて捉えられます。この二つは、抑うつや、自分の能力の見積もり、親からの承認感などとの結びつき方がそれぞれ違う、という整理が提案されています(参考: 2, 3)。ただ大事なのは、分けて捉えるといっても完全に独立した別物ではないことです。測定モデルで見ると、全体に共通する大きな一本の柱が大半を占めていて、二つの面はその上での枝分かれくらいの重なりを持っています(参考: 4)。
研究が示しているのは、ここまで――この二つの面が、ひと続きでありながら大半は一緒に動く、というところまでです。奥・手前・あいだ(蝶番)という縦の並べ方や、そのあいだに自己肯定感を置く置き方は、その二つの面と、日によって動く「いまの通り具合」とを、説明のために並べ直した整理であって、研究がこの三つの層を測ったわけではありません。だからこそ、この絵の中でも、「別の箱」ではなく「ひと続きの中の別の面」という言い方が、いちばん実態に近いのです。
その一枚で見ると、三つはバラバラの言葉ではなく、奥から手前までひと続きになります。

「受け取り直す」は自分を褒めることとどう違うか
「蝶番がうまく通っていない」――この言い方に、自分のことを言われた気がした人もいるかもしれません。表では稼げているのに、奥のほうには振り込まれない。その感覚に、心当たりはないでしょうか。
ただ、ここで一つ引っかかるところがあるはずです。その「受け取り直す」というのは、具体的にはどういうことなのか。聞いていると、「成果が出たときに、ちゃんと自分で喜びましょう」「自分を褒める習慣をつけましょう」といった話に近いのかな、と思えてくる。しかも、そういうことなら、試してみたことがあるかもしれません。今日はこれができた、と書き出してみる。けれど、あれは結局「できたこと」を数えているので、また成果の話に戻っている気がして、奥にはあまり効かなかった――そんな手応えになりがちです。だから、蝶番の通りをよくするというのが、自分を褒めるのとどう違うのか、何を受け取るのか、そこがまだピンとこない。これは、とても紛らわしいところなのです。
正直に言うと、「今日これができた、と書き出す」やつ――あれが奥に効かなかったのは、当然だと思います。だってあれは、結局のところ採点なんですよね。できたことを数えて、自分に点をつけている。それは、成果の自信の回路、そのままなんです。条件つきの評価を、自分で自分に向けてやっているだけで。だから一見やさしくしているようでいて、内側では「で、今日は何点取れた?」を続けている。奥の素の値には、相変わらずほとんど振り込まれません。
では「受け取り直す」で受け取るものは何かというと――できたことではなくて、いま現に自分の中で起きていること、のほうなんです。点のつかない側。具体的に言いますね。たとえばプレゼンがうまくいかなくて、夜に「自分なんて」がふっと来たとする。褒める習慣のやり方だと、ここで「いやでも今日は資料の構成は頑張ったじゃないか」って、できたことを探しにいく。点を足しにいくんですよ。そうではなくて、受け取り直すというのは、その手前で止まって、「ああ、いま自分、けっこう落ち込んでいるな」「悔しいんだな」と、起きていることをそのまま認める、それだけなんです。直そうとも、慰めようとも、評価し直そうともしない。落ち込んでいる自分に、落ち込んでいていい、と通り道を空ける。認めることと、必要な手を打たないことは別の話です。置いてあげるのは気持ちのほうで、動けることまで止める意味ではありません。
褒めるのは、ネガティブな状態を「でも」で打ち消して、ポジティブな点で上書きしようとする。受け取り直すのは、打ち消さない。落ち込みも悔しさも、消さずにそのまま手元に置く。できた・できないの軸から、いったん降りているんですよ。点をつけない、というのが肝で。
なぜこれが奥に効くかというと――奥の素の値は、「成果が出ている自分」を待っているんじゃないんです。条件が外れたときの自分、点が取れていない自分を、それでも置いておけるかどうか、なんですよね。だから落ち込んでいる夜こそ、通りやすいのだと思います。うまくいった日に「よくやった」と褒めるのは、奥にとっては「条件が揃ったから受け入れる」のもう一回でしかなくて、蝶番はやっぱり通らない。むしろ通り道が空くのは、点が取れていない側を、点抜きで置けたときなんです。
このあたりは、感情の研究の側からも補強できます。自己評価というのは、どんな感情とも一様に結びついているわけではなくて、「自分そのものが問われている感情」――誇りとか、恥とか――にいちばん強くリンクしている。逆に、自分と直接関係しない一般的な気分とは、そこまで連動しません。だから落ち込んだ夜にやってくる「自分なんて」は、ただの不機嫌ではなくて、まさに自己評価が直撃されている感情なんですね(参考: 5, 6)。そこを「できたこと」で上書きしようとすると、誇りや恥の側を別の点数でなだめにいくだけになりやすい。それにもう一つ、自己評価が低めだと、いいことがあってもその嬉しさを自分で抑え込んでしまう、味わいきれない、という傾向もあります(参考: 5, 6)。これも、「点を足す」やり方が奥に届きにくい理由とつながっています。
ただ、これを万能薬みたいには言いたくないんです。「そのまま認めましょう」と言葉にすると一行なんですけど、やってみると、最初はかなり気持ち悪いと思います。落ち込んでいる自分をそのまま置くって、慣れていないと「いや何か手を打たなきゃ」と、すぐ採点モードに戻りたくなる。それでいいんです。戻ったら、ああまた点をつけにいったな、と気づいて、もう一回手前に戻る。その往復そのものが蝶番の運動で、一発で奥まで通る魔法のフレーズがあるわけではありません。
だから「何を受け取るのか」をいちばん短く言うなら――できた自分ではなくて、いまここにいる、点のつかない自分のほうです。それを、評価せずにただ居させてあげられるか。受け取り直すというのは、足し算ではなくて、むしろ採点をやめる、引き算のほうなんですよね。
人を読むときも自分を一個の箱に入れない
自慢と自己卑下を行ったり来たりする人、いませんか。傍から見ると正反対のことをしているように見えるんですけど、たぶん同じ一個のことをしているのだと思います。どちらも、成果の回路で自分の値段を測っている。自慢は「いま点が取れている」の表示で、自己卑下は「いま点が取れていない」の表示。逆を向いているだけで、両方とも採点表を握りしめている手は同じなんですね。だから揺れる。奥の素の値が静かに据わっている人ほど、わざわざ自慢もしないし、卑下もそんなにしない、と読めることが多いように思います。揺れの幅そのものが、「この人、自分の値段を成果に預けているんだな」というサインなんです。どちらなのか、と戸惑わなくていい。両方とも蝶番が通っていない側の動きで、別物ではないんです。
人を見るときに使えるか、というと——使えます。ただ、「この人はどのタイプ」と当てる道具としてではなく、自分の内側でやってきたのと同じこと、つまりどの顔が手前に出ているかを読む道具として、なんです。
「すごく自信ありげなのに、些細な否定でガラッと崩れる人」も、これで読めます。手前の自信と奥の素の値が連動していないやつ、まさにあれです。表でにぎやかに動いている自信は本物なんですよ、嘘じゃない。でも奥に取り次がれていないから、些細な否定が一個、その奥の「で、お前そもそも価値あるの?」を直撃すると、表のにぎやかさでは防ぎきれない。崩れ方が大きさに見合わないとき、たいてい当たっているのは能力の点数ではなくて、奥のほうなんです。
これは対人場面の研究ともよく噛み合います。自己評価が低めの人は、相手が自分をどう見ているかを実際より低く見積もり、ちょっとした手がかりを拒絶のサインとして過剰に読み取り、先回りして相手を値踏みしたり距離を取ったりしやすい——こういうパターンが、複数の実験や恋愛関係の追跡研究で繰り返し出てきています。本人にしてみれば「冷たくされた」と感じているんだけど、外から見ると、起きてもいない拒絶を読み取ってしまっている、という形で描かれることが多い。だから崩れ方が出来事の大きさに見合わないとき、当たっているのは多くの場合、能力の点数のほうではなくて、奥の「受け取っていいのか」のほうだ、という見立てには、観察の裏付けがあります(参考: 7, 8, 9)。
「自慢する人ほど据わっていない」というあたりも、研究の側から線が引けます。自分を大きく見せる構え——いわゆるナルシシズム——は、「自分は外向的だ・頭がいい」みたいな”できる”系の自己評価では人より上だと見るのに、「自分は思いやりがある・誠実だ」みたいな”人としての温かさ”系では、別に人より上だとは思っていない、という偏りが知られています(参考: 10, 11)。一方で、地に足のついた高い自己評価の人は、その両方でわりとフラットに自分を肯定している。つまり自己評価そのものと、自分を大きく見せる構えは、似て見えても発達の経緯も結果も別物で、この大きく見せる構えを「過剰な自己評価」と同一視しないほうがいい(参考: 10, 11)。自慢の声の大きさは、奥の素の値が据わっているサインではない、ということです。
ただ一個だけ注意があって。これ、人を分類するために使うとだいたい外すんです。「この人はセルフワース低い人」みたいにラベルを貼った瞬間、その人もやっぱり一個の箱ではなくなる。同じ人が、得意な場面では素の値が据わって見えて、別の場面ではガラッと崩れたりする。だから人に対しても、見るのは「いまこの人のどの顔が喋っているか」までで、止めておくのがいいと思います。
そして、これがそのまま繋がるんですけど——これは、自分を三つのどれかに分類する話ではないんです。正しい定義を一個に決めにいくのではない。情報源によって定義がまちまちなの、あれは困った状態ではなくて、むしろ自然なんです。だってもとが一個のもの——自分をどう評価しているか——を、どの角度から切るかで名前が変わっているだけなので。切り口が複数あれば、定義は割れて当たり前なんです。割れていること自体は、何も問題ではない。
だから「自分は自己肯定感が低いタイプ」とか「セルフワースが足りない人間」みたいに、自分を一個の箱に入れて値踏みする——あれだけはしないでほしいんです。それは結局、いちばん最初に話した採点を、今度は自分という存在ぜんぶに対してやっているのと同じなので。点のつかない側を点抜きで置く、という話をさんざんしてきたのに、最後に「私はどのカテゴリ」で自分に点をつけにいったら、本末転倒です。順位でもありません。自信があるのが上で、ないのが下、みたいな話でもない。三つは優劣ではなくて、奥から手前までひと続きの、同じ一枚の絵なので。
読みたいのは「私はどこに分類されるか」ではなくて、いま、自分のどの面が効いているか。今日は手前の自信がにぎやかな日なのか、奥が静かに前に出てきて足元が抜けている日なのか。見分けの手がかりは、前のほうで出てきたあれで足ります。うまくいかないことに理由がつけられて弁護できるなら、それは手前の自信のほうの話。理由もはっきりしないのに「自分なんて」と足元が抜けるなら、奥のほうの話です。それが読めるようになることが目的で、診断結果が出ることが目的ではないんです。
まあ、ここまで言っておいてなんですけど、絶対にこうだ、と言い切れるほど綺麗に分かれるものでもないとは思っています。人によって手応えは違うはずです。ただ、少なくとも「自分を一個に分類して落ち着こう」とする方向には、たぶん答えはないんじゃないかな、と。
読み分けでは届かない段と専門家に渡す線
ここまでの読み分けが効くのは、手前に出ている顔と奥に引っ込んでいる顔とが、その日その日で入れ替わるからです。今日は足元が抜けていても、別の日には素の値が静かに引っ込んで、手前の自信がにぎやかにしている。どちらの顔もちゃんと動いていて、その出入りが生きているからこそ、読み分けが意味を持ちます。
問題は、その出入りが止まったときです。「で、お前そもそも価値あるの?」という奥の声が、場面に関係なく前に出たまま、何をしても戻ってこない。得意なことをしている最中でも引っ込まないし、いい日が来ても静かにならない。そうやって何週間も足元が抜けっぱなしで、それが眠りや食事や、朝起きて動くことといった生活の土台のところまで侵食してくる。そこまで来ると、これはもう「今日はどっちの顔の日かな」と読み分けて扱う話を超えています。読む対象である出入りそのものが、固まってしまっているからです。
ここは誤解しないでほしいのですが、自分の価値を疑うこと自体が病気のサインだ、という話をしているのではありません。むしろ逆で、奥の素の値がふっと前に出てくる日があるのは、ごく普通のことで、それ自体はぜんぜん健全な範囲です。線が変わるのは、続く長さと、生活に及んでいるかどうかです。一日二日の落ち込みでも、いい日と悪い日を行き来しているうちは、ここまで話してきた読み分けの範囲にあります。そうではなく、戻る波が来ないまま何週間も続いて、それで眠れない・食べられない・日常がまわらないとなったら、それはもう自助のフレームの外で、別の助けが要る領域です。
この線引きは、感覚だけの話ではありません。自己評価そのものの高さと、その揺れ方とを分けて見ること——これは研究の側でも意味を持っています。気分が沈んだときに、自己評価まで大きく一緒に下がってしまう人がいます。こういう人は、もともとの自己評価が高いか低いかとは別に、その後うつが強まりやすい、という報告があります。ある追跡では、こうした気分連動型の自己評価を示した人で、数週間のあいだに抑うつ症状が有意に増えていました(参考: 12, 13)。いま自己評価が低いこと自体よりも、悪い気分が来たときに戻ってこなくなるかどうかのほうが、行き先を分ける。だから「いい日と悪い日を行き来できているうちは読み分けの範囲、戻る波が来ないなら別の助けが要る」という線引きは、こうした観察ともつながっています。
そういうときに、ここまでの話を「自分の受け取り方が下手だからだ」とか「もっとうまく読めれば抜けられるはずだ」と、自分を責める材料にだけは使わないでほしいのです。これは、さんざん話してきた採点の、いちばんたちの悪いやつです。抜け出せない自分にまで点をつけにいっている。そうではなくて、出入りが止まって生活まで届いているなら、それは気合いや読みの精度の問題ではなく、一人で扱う範囲を超えただけのことです。
ひとつだけ、長さを待たなくていい例外があります。もし「消えたい」「いなくなりたい」といった考えが出てきたなら、それは何週間続いたかを数える話ではなくて、いますぐ誰かに相談していい合図です。
そこまで来たら、専門家——医療機関でも、相談の窓口でもいいのですが——に渡していい。いえ、渡したほうがいいです。風邪が長引いて仕事に出られなくなったら病院に行く、それと何も変わりません。むしろそこで一人で抱え込んで「自分でなんとかしなきゃ」と粘るほうが、たぶんいちばん採点モードに近い。ずっと続いていて、生活にまで及んでいる。その二つが揃ったら、一人で抱えなくていい。最後に置いておきたいのは、それだけです。
参考文献
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